昭和42年7月23日 朝の御理解
その人はなかなかの信心家じゃといわれるように、いうならひとかどの信心にならせて頂いて、どういうようなところまで信心にならせて頂いて、どういうところまで信心を進めていったら、ひとかどの信心家といわれ、又は信心家と自分でも思えるようになるかと、毎日日参をしておると、毎日お参りをしておるというようなことも成程信心家でなからにゃでけることじ御座いませんけれども、私は信心家というのはですね、いわゆる祈りに明け暮れさしてもらうと。その祈りに明け暮れさして頂くということが有難く、と同時に楽しいというところまていった人のことを、信心家というようにいわれ又自分も信心家と、自分も信心家とこう思えれるんだと、こう思うです。皆さんどうでしょうか、祈るということが有難いだけじゃなくて、祈ることが楽しい ですから祈りに明けて祈りに暮れるということ、祈りに明け暮れさせてもらうということが有難い。楽しいのである、お参りをしておる時だけ、そりゃ毎日お参りをしておりますというても、お参りをしておる時だけ、毎日お参りなさるから信心家とは私は云えないと思う、ね。
祈りに明け暮れさして頂くということが楽しい、ね、いわゆる、やっとかっとの信心じゃつまらん ね、毎日参りよっても、それで毎日がやっとかっと、頼むことがあるけん、願うことがあるけんで参りよるというのでは、それでは信心家の楽しみち云うものはない。ね、嬉しければ嬉しい、悲しければ悲しい ね、降れば降るで、照れば照るで祈らなければおられないという信心。しかもそれが祈らせてもらうということが楽しゅうなる、有難うならせてもらう、祈れるということがほんとに有難いことであるかというような祈りをいつも持っておる人、自分の苦しい時には、金光様といつも心の中に、もう平穏なことが続くともう金光様を忘れてしまっておる、いや御神前に出ることすりゃ忘れてしまっておる。お互いひとつ ひとかどの信心家にならにゃいけませんね。
同時にですね、祈るということがどんなに大切なことか、又祈るということがです、どれほど神様の心を動かすことが出けるかと ね、私は昨夜最後の御祈念をさしてもらう、休ませてもらう時に御祈念をさして頂いとりましたら、昼頃から一寸心にかかることがあった。ところがそのことを忘れてしもうとった。そしたら神様から、いわゆるそのことをですね、あのことを願っておけ、祈っておけと頂いた。ということは皆さん、どういうことだと思いますか。なら 私夜中にそのことを目覚めに思い出したと致しましょうか、あ、あのこと心にかかっとったことが心配、もう心配になるということは、おかげは受けられないのですね。ところがおかげを頂いて、神様から祈っておけ、願っておけと頂いたからもう、神様がおかげ下さるということが分かるんです。昼から祈っておった、思っておったこと、勿論思っておったことそのまま、祈っておったことにもなるわけですね、信心者としては。けれどもそれがその、それかと言って、たいして眠れんというようなことでもないのだけれども、なんとはなしに心にかかることであった、けれども最後の御祈念の時にその事を忘れておったんですけれどもです、神様がその事を思い出させて、それこそ思い出させて下さるというよりもですね、忘れておったものを、ほらほらと こう気付けてくださるようにです、あのことを祈っておけ、願っておけとこう云う、それから改めてその事を祈らせてもらい、願わせてもらったら、はあ、これは気にかかることではなかった、ということが分かると同時にです、よし夜中に目覚めてからでもそのことが心配にならんでも済むでしょうが。ということと同時にですね、神様がですね、もうお願いしておけば、祈っておけばおかげにしてやるということが云えるようですね、だから祈らん分が損、はあ成程なあ、祈っとかにゃいかん、願っとかにゃいかん、ということを感じます。
こうなって参りますとです、祈るということが有難いだけでなしに、楽しゅうなってきます。私はですね、もう四,六時中神様をはずさない 心の中に頂き続けておる、いうならば寝ても覚めてもとこういうこと、というのはですね、矢張り思い続けるということは、祈り続けるということだと思う、いうならお願いし続けるということだと思うです。お礼を申し続けるということ、お詫びを申し続けるということ。ね、そうして祈り続けておる時に 人にこりを積ませるようなことも云わんで済む、行なわんで済む、そういう祈りの心から離れておる時、人にこりを積ませるようなことを、うかつに云うたり行うたりしております。ね、しかもその祈れば神様が聞き届けておって下さる、そして神様が いうならば良いように働いて下さる。それは祈らんでも自分が思うておることが、考えておることが、行なっておることが正しいことであれば、それこそ祈らずとても神様は守らんというような考え方ということは、いかに信心さして頂くものからいうたら横着な考え方かということが分かりますですね。
信心さしてもらって神様が分かれば分かるほど、祈らなければおられんのであり、縋らなければおられんのであり、願わなければおられんのである。ね、ですからその願うことに、有難いものと楽しいものとが頂けれるようにならなければ、祈りに明け暮れるということにはならん。ね、それはひとつの区別を致しますと、拝まにゃ通さん、改まらにきゃ通さん、磨かにゃ通さん、そういうひとつの過程というものが、信心の願いということの中にあるんですのよね。初めの 初心の間はただ願うことだけしか知りませんものね、みんなは。しかしその願うことだって、おかげになるやらならんやら、半信半疑ですもんね、それでも矢張り溺れる者はワラでも掴む、というような心理状態が心の中にあるもんですから願うんです。そりゃまあだ、私が今日云う願う、祈るということは大分遠いようですね、ま、そんな風にひとつの区分して表現してありますけれども、これは三つがいつも一緒のもの、ね、もうほんとに改まらなければ、神様はおかげ下さらんのだな、自分でも思い込ませてもらう、分からしてもらう。人にほんとにこりつませる人が 癖の人がある、こういう癖の人は、大変助かり難い人ですね、自分も気付いてないけれども、人はですね、それこそもういやという程心に傷つけられておる。そしてもうあの人から、あげなこと云われたけん信心は止むごつある、信心者同志でもですよ、たった一言のことがですね、もうほんとに嬉しゅうなるようなことしか云えない 云える人とですね、もう一言云や嫌味である、一言云や人の心を傷つけるようなことをです、お互いがですね、自分はそげなことはなかろうと思いよる人達でもですね、一辺思うてみなければいけませんよ。こりゃもう私自信もそうです、大体がろくそな人間ですから、ほんとに人にもう迂闊に云うたこと、いや迂闊じゃなか、その人のことを思うて云うたようなことが、かえって相手にこりを積ませたり、相手を傷つけたりしたようなことがある、後々で先生からああ云われてからね、ほんとに腹が立ったり、腹を立たせたり傷つけたりしておる、後で相済まんと思うても、もう取り返しがつかない。ですからですね、もうほんとに、はあ自分のこげな口の悪い人間であったり、こりを積ませることを云うんだということがですね、分かって、はあ、これを改めなければおかげを頂けんと分かったらですね、本気でやっぱ取り組まにゃいかん ね、いわゆる拝まにゃ通さんから改まらにゃ通さんというところまでなってまいります ね、同時にそれをいよいよ磨き上げていかなければならん、もう研かなければ通さんという風にですね、三段階に分けて祈るということの内容を、信心の段階といったようなものを示してありますけれどもです、これは必ずしもそういう、はっきり色分けをしたようなもんじゃない、研かなければ通さんという時代でもです、ただ願うだけでも、夕べのことなんかは、ま例えて申しますならですよ、私がもう拝まにゃ通さんところも通った 卒業した、改まらにゃ通さんというところも卒業した、例えばね、もう私はいよいよ磨き上げていくばっかりというところになっておる。だからもう研かなければ通さんと神様が研くことだけに、じゃなくてです、そこの段階にある人でも、夕べのところを頂きますと、願うだけでもいいことが分かるじゃない。だから、これはもういうならばもう、ひとつのようなものなのだ ね、しかも私は今日分かって頂きたい事はですね、例えばよく申しまね、頼まんことは神様でん知らっしゃれん、これは信心の無い人がよく云うこと、ね、頼まんことは神も仏も知らんち、しかしこれは嘘じゃないと思うですね。頼まずとても神は祈らんなんて、もうほんとに横着な考えですよ、こんなことは。自分がしておることが真直さえ行きよりゃ頼まん、成程私共教えに忠実であり、本気で教えに行じさせて頂きよれば、成程願わんでも頼まんでも、神様がほんとにおかげ下さることだけは間違いはないですよね、これは間違いはないこと、けれども私共は神様が下さるだけでは済まされないことが沢山有るということ。
昨日私が心にかかることも、そんなこと ね、ですから、願っとったけれどもというて、それが大変な考え出したら腹が立つとか、考えだしたら眠られんといったような、深刻なことではないんですけれど 私御祈念さして頂きよったらそのことを忘れておった、けれども思い出したら心にかかることでしょうね きっと、けれども神様はそこんところを指摘して、あのことを願っておけ、祈っておけと神様が仰る。そのことについて研け、改まれとは仰ってない、願っておけ祈っておけということである。そこにです、神様が頼まん事は神も仏も知らんというような事が分かるでしょうが、頼む、氏子が頼む、その事を頼むからそのことを心配はいらんのぞ、とかおかげの方にして下さるという働きが、そこから始まるという事が分かりますから、願わなければおられない、祈らなければおられないのである。ね、そういう風になってまいりますとですね、矢張り祈りに明け暮れさせて頂くことが有難い、いや、そうさせて頂いとかんとですね、私共ごたる大体人にこり積ませる性格の者はです、その合間合間にこりを積ませとる。
四,五日前でした ある方が二回、あらどうして参って来たじゃろか 二回日に参ってきた。
先生、今日はどうも私ゃ胸に持ちかねることが御座います、どうした、今朝朝の御祈念に参らして頂いた、誰々さんからこう云われた、もう腹ん立って腹ん立って、どげんしたっちゃ治まらん、しかしそげなこつを云うこつも云うのと、私ゃ思いましたけれども、けれどもその人じゃない、矢張り神様が、とこう思うたら、そげん思うて見ましたばってん、とにかく腹ん立ってお参りしとるかたそでたっちゃこりを積ませることを云うておるのですから、御理解頂くかたそでに人にこりを積ませる、それこそその人が朝お参りして、昼頃まだその胸が治まらんというようなことを平気で云うんですから、私共そういうことがありゃせんだろうか、思うてみなければいけません。ねえ、その人がいかに 例えばお参りをさせて頂いとっても、祈りに明け暮れていないか、ここでは祈っとっても帰りにはそこんにきまで行く間には、その祈りということを全然心の中から抜けてしもうておったが分かるのですね、ここではお互いが有難うならせて頂いて、もう有難いものが、ね、もうそれこそぶっかり合うように、有難いものがいっぱいなからにゃならんのにです、腹の立つようなことがぶっかり合うようなことでは、もうお広前の値打ちがない、ね、有難いものがぶっかり合うようにあって、そのひとつの有難いという雰囲気がここに生まれてくる。それがひとつの渦のようになる、そこに信心のない人が入ってきた時にです、例えばなんとはなしに、はあ信心ちゃ有難いものじゃということになるのです。 ね、ま、とにかくですね、皆さん あの祈るということはね、おかげは受け徳、受け勝ちということにも通ずると思う、願うということは願わんことは神様は知らっしゃらんこともやっぱ知らっしゃれんことはないけれども、神様はやっぱ知らん顔しござる、頼むからこっちを向きを変えて下さるといったこともあるということ、ですからどうでもお互いがひとかどの信心者に、いわゆる信心家と云われる自他共に許すだけの信心を身に付けたい、それは祈ることが楽しゅうなる、勿論祈ることが有難くなる、しかもそれが明け暮れての祈りであるような私共にならせて頂く時に、ほんとの信心家ということが云えるのじゃないかと思うですね。 どうぞ